日本は大韓帝国を植民地にしていたのですか?

「植民地」とは一体何でしょう? 
「植民地」は欧米の白人国家が自国に必要な資源や産物を得るためにアジア・アフリカの黄色人種や黒人の国を武力で征服し、現地人を奴隷状態にすることです。第二次世界大戦後、アジア・アフリカの弱小国はほとんど独立しましたが、それでも貧困から抜け出られない国が今でもあります。
それは旧宗主国が現地の土壌に合わない作物を無理に作らせ、現地人に教育を与えなかったからです。

日本は大韓帝国を「植民地」にしたのではなく「併合」したのです。
分かりやすく言えば、倒産寸前の会社を吸収合併したようなものです。
日本が親会社ですから対等な合併ではありません。でも合併ですから社員はクビになることはありません。
子会社の借金も親会社の日本が引き受けました。
日本は併合した台湾や朝鮮に巨額の国費を投じてインフラ整備をしました。
戦後、日本は経済大国になりましたが、それはお荷物だった台湾や朝鮮を手放して楽になったことにもよります。
また独立後の台湾、韓国も今ではアジアの先進国になりました。
欧米列強が植民地にしていた東南アジア諸国に比べて台湾、韓国の発展が著しいことを見ても、いかに日本の統治が優れていたかが分かります。

日韓併合は韓国人の「意に反して」行われたのですか? 

確かに併合に反対して抗議の自殺をした大臣もいました。
誰だって自国がなくなることを喜ぶはずはありません。
しかし大韓帝国は破産状態で、もはや独立国といえる状態ではありませんでした。
財政が破綻していただけでなく、古い習慣や価値観にとらわれ、近代的・合理的な発想が全くできませんでした。

国王である高宗は意志薄弱で、父親の大院君と王妃の閔(ミン)妃の争いに振り回されていました。朝鮮国内の混乱に乗じて中国(当時は清(シン))とロシアが派兵する機会を狙っていました。
日本にとって朝鮮半島は大陸の玄関口です。
すぐ隣の朝鮮が不安定で、ロシアや清の介入を招くことは日本の脅威につながります。日本は朝鮮の近代化と自立のために日清戦争、さらに日露戦争を戦い、勝利しました。
それでも高宗は自国の危機から目をそむけ、朝鮮の近代化に着手しようとしませんでした。

朝鮮の滅亡を救えるのは日本しかいない、と考える朝鮮人もたくさんいました。
李容九はその代表的な人物です。
彼が組織した「一進会」の会員約15万人は日露戦争の時、日本軍の物資を搬送する鉄道建設に協力しました。
1905年、日本が大韓帝国を「保護国」とする方針が発表されると「一進会」は「政府の外交権を日本に委任すること」を求めてデモをしています。伊藤博文は保護国論者で、日韓併合には消極的でした。
しかし1909年、安重根がハルピンで伊藤博文を暗殺します。
明治の元勲、伊藤博文を殺された日本の世論は一挙に硬化し、翌1910年、日本は大韓帝国を併合しました。

なぜ朝鮮は近代化が遅れたのですか?

朝鮮は昔から中国の属国でした。
「朝鮮」という国名も中国(当時は明(ミン))につけてもらったものです。
朝鮮国王は定期的に明の皇帝に貢物を捧げ、元号も中国式に改めました。
漢字、儒教、科挙,官宦などを取り入れ、それを本家である明よりもさらに徹底して守りました。
大国、明の隣にある弱小国、朝鮮はそのようにしないと生き延びられなかったのです。
日本も漢字や儒教を中国から取り入れましたが、それを無批判に受け入れるのではなく、日本に合わない部分は変形させ、独自の文明を創ってきました。

朝鮮王朝時代(李氏朝鮮ともいう)500年間、華夷秩序(中国が世界の中心で、周辺国は野蛮な国だという考え方)の中にどっぷり漬かってきた結果、外の世界を冷静に見る視点を朝鮮は持てませんでした。
欧米列強の脅威が迫っているにもかかわらず武力を軽視し、軍備を整えようとしませんでした。
日清戦争で日本が勝ったお蔭で、朝鮮は初めて中国から独立できました。
しかし朝鮮はそのチャンスを生かせませんでした。大国の傘のもとで生きてきた歴史が長かったので結局自立できなかったのです。


日本は朝鮮語を教えず、日本語を話すように強制していたのですか?

ハングル文字は朝鮮王朝4代目の世宗が漢字の読み書きのできない庶民のために作ったものです。
しかし当時は漢字こそが正当な文字だという考え方が根強く、諺文(卑しい言葉)と呼ばれていました。
明に対する気兼ねもあってハングル文字を普及させようとしなかったので、文字はあってもその存在は忘れられていました。
それを朝鮮総督府が発見し、朝鮮語教育のための教科書や教材を大量に作って小学校で教えたのです。
日本語も教えられましたが、朝鮮語を禁止したわけではありません。

日韓併合当初、朝鮮人の識字率は約4%でした。
伊藤博文は教育の重要性を主張し、特に小学校教育に力を入れるように指示しました。
その結果、1905年には朝鮮全土に4校しかなかった小学校が日本統治35年間で5200校にも増えたのです。
今、韓国人はハングル文字(ハングルは偉大な文字、の意味)を「偉大な発明」と自画自賛していますが、そのハングル文字を実は自分たちが粗末に扱ってきたという史実を知るべきです。

日本は「創氏改名」で朝鮮人の名前を奪ったのですか?

「名前を奪った」と現代の韓国人は主張しますが、もともと朝鮮人の名前は中国に倣ったもので、朝鮮独自のものではありません。
「創氏改名」は台湾では許可制でしたが朝鮮では申告制で、朝鮮総督府は「強制してはいけない」という訓令をわざわざ出していました。
だから改名しなかった人も当然たくさんいます。戦後、戦犯として処刑された洪思翊中将のように朝鮮名で通した人も多かったのです。

「創始改名」の希望者は主に商売で外国に行く朝鮮人でした。
人種差別が当然だった時代にパリやロンドンで白人専用のホテルに泊まれたのは有色人種では日本人だけでした。
名前を変えることによって相手の信用度も高まります。
個人的に日本式の名前を好むかどうかはともかくとして、商売をする上で日本式の名前が有利だったことは確かです。
韓国では戦後も女の子に「〜子」という日本式の名前をつけるのが流行しました。
朝鮮人が実は日本式の名前に憧れていたことの何よりの証拠です。

日本は「3・1独立運動」を弾圧したのですか?

「3・1独立運動」は1919年3月1日に起きた、日本統治時代でもっとも大きな独立運動です。
今、韓国ではこの独立運動を記念して3月1日を「3・1節」と呼んでいます。韓国の教科書ではこの運動の複雑な背景が説明されず、ただ日本の支配が過酷なもので、それに抵抗して立ち上がったデモ隊を武力で弾圧したかのように書かれていますが、事実は違います。

「3・1独立運動」の背景にはいくつかの要因があります。
国外ではアメリカ大統領ウィルソンの提唱した民族自決主義やロシア革命の成功といった大きな時代の流れがありました。
日本の統治は穏当なものでしたが、それを不満に思う朝鮮人が少なからずいたことも事実です。それは朝鮮が長年、中国の属国だったことによります。朝鮮人は自分たちのことを「小中華」と称していました。
そして日本は華夷秩序の外にある野蛮な国だと教えられてきたのです。
その野蛮な国に統治されるという屈辱感が大きかったようです。

国王である高宗が1919年1月21日に急死したことをきっかけに「3・1独立運動」は始まりました。
最初は首都、京城(今のソウル)でデモをしていましたが、やがてデモは全国に拡大し、暴力化してゆきました。
デモ隊は各地で警察署や憲兵分遣所、村役場、小学校などを襲い、放火、投石、暴行、殺人を行うようになりました。
それに対して警察や憲兵が出動し、懸命に治安を守ろうとしました。
暴動は3カ月続き、多くの犠牲者を出しました。
この暴動で日本人警官が殺されたにもかかわらず、デモの首謀者18人は逮捕された後、誰一人死刑になりませんでした。
韓国の教科書に「日本の拷問で殺された」と書いてある柳寛順という少女も実は病死だったことが判明しています。


日本は朝鮮王室を潰したのですか?

日韓併合によって朝鮮王朝(李王朝)は滅びました。
しかし日本はその後も李王朝を手厚く保護しました。
王家の財産はそのままにし、その上に日本の皇族費よりも多額の王族費を支給しました。かつての王族や重臣を日本の華族にしました。
高宗の息子である垠(ギン)殿下を11歳の時に日本に迎え、日本の皇太子同様に養育しました。
このことを「日本が朝鮮の皇太子を人質にした」と現代の韓国人は批判しますが、垠殿下自身が伊藤博文や明治天皇に非常に可愛がられた、と語っています。

垠殿下と結婚したのが有名な梨(なし)本宮方子(もとのみやまさこ)様です。
この結婚も「日鮮融和のための政略結婚」と批判されますが、お二人は複雑な日韓関係を背負いながら激動の時代を共に過ごされました。
日本の敗戦後、李王朝の正当な後継者である垠殿下は韓国に帰ろうとしました。しかし韓国の初代大統領となった李承晩は、日本の庇護の下に育った垠殿下に対して冷淡でした。
結局、韓国は李王朝を復活させず、大韓帝国ではなく大韓民国としてスタートしました。

垠殿下が韓国に帰れたのは1963年ですが、その時には既に脳軟化症で意識がありませんでした。
垠殿下を見送った方子妃殿下はそのまま韓国にとどまり、二つの身障者施設を設立しました。
日本の女性皇族方は昔から常に福祉事業の先頭に立ってこられました。
方子妃殿下もその伝統を受け継いで福祉事業に献身し、1989年に逝去されました。

伊藤博文はなぜ暗殺されたのですか?

伊藤博文を暗殺した安重根は現代の韓国人なら知らない人はいない「民族の英雄」です。
しかし、彼が伊藤博文を暗殺したことによって日韓併合が決まったのですから、彼は英雄どころか亡国のA級戦犯のようなものです。

安重根が逮捕された後、獄中で書いた「東洋平和論」という論文があります。
それによると彼は日露戦争の意義を認め、日本の勝利を喜んでいます。しかし日本が朝鮮を独立させてくれるだろうという期待に反して「保護国」にしたので、伊藤博文を恨むようになったようです。
彼は満州やロシアでゲリラ活動をしていたので国内の事情に疎く、朝鮮を取り巻く厳しい国際情勢にも無知でした。

伊藤博文の死を嘆いたのは日本人だけではありませんでした。
日露戦争を戦ったロシアを初めとする欧米の国々の新聞はこぞって追悼の記事を載せました。
朝鮮の国内でも追悼行事が行われ、慰霊のための寺や銅像、石碑を建立する運動が全国で次々と起こりました。
当時、旅順監獄にとらわれていた安重根のところに面会に行く者はなく、伊藤博文に対しては「東洋の英雄」「朝鮮国の恩人」などの讃辞が送られました。

逮捕された後、安重根は5カ月の獄中生活で心境の変化があったようです。
日本人の警官や看守に思いがけず親切にされたことも彼を変えました。
彼は書が得意だったので死刑になる前、世話になった看守たちに約200点の書を送っています。

日本は朝鮮人を「強制連行」したのですか?

日韓併合後、貧しい朝鮮から豊かな日本へ移住しようとする朝鮮人が殺到しました。
朝鮮と日本の賃金格差は2倍あり、日韓併合後、朝鮮の人口は急激に増えたからです。
法律の網の目をくぐってでも日本で働こうとする朝鮮人密航者に総督府は頭を痛めていたほどです。
わざわざ「強制連行」などする必要がないのは言うまでもありません。

1939年、内務省次官通牒「朝鮮人労務者内地移住に関する件」で8万5千人の朝鮮人労働者の移住が許可されました。
すると炭鉱の募集係のところには朝鮮人の農民がどっと押し寄せ、列をなして待っていました。
大東亜戦争勃発後、日本の青年が出征し、労働力が不足したので朝鮮人にも「徴用」が適用されました。
「徴用」とは学生などが軍需物資を作る工場で勤労奉仕をすることで、日本人は戦争が激しくなる頃から「徴用」されています。
朝鮮にはなかなか「徴用」が適用されなかったので朝鮮人のほうから希望もあり、戦争末期の1944年9月から朝鮮人にも適用されるようになりました。
この「徴用」のことを「強制連行」と現代の韓国人が誤解しているのなら、歴史の勉強をもっとするべきです。

日本の統治によって朝鮮はどう変わりましたか?

たった35年間で朝鮮人の生活は劇的に変わりました。
人口は2倍に増え、24歳だった平均寿命は30年以上伸びました。
人口の約30%いた奴婢(奴隷)は農地をもらって自活できるようになりました。
識字率は4%から61%になり、大学も作られました。
幼児売春、幼児売買、拷問が禁止され、女性にも名前が付けられるようになりました。物々交換から貨幣経済に転換し、度量衡が統一されました。
はげ山に6億本の樹木が植えられ、上下水道が整備されました。
道路、鉄道、港湾施設、病院が作られ、堤防工事や灌漑工事によって河川敷が農地になりました。
農業が近代化されたことによって1反当りの収穫量が3倍になりました。
しかし短期間にこれほどの改革をするために日本は毎年約20%の財政補填をせざるを得ず、日本人は重税に苦しみました。

優秀な朝鮮人は朝鮮総督府の官吏や軍人、教師、警官になることもできました。
最初は下級官吏でも試験に受かれば能力次第で出世できたのです。
これをイギリスのインド統治と比べてみましょう。イギリス人が優秀なインド人を官吏に登用したでしょうか? 
そもそも植民地支配では現地人を教育したりはしないものです。
教育すれば知恵がつき、抵抗したり独立運動を起こしたりするからです。
日本が朝鮮を植民地にしたのではないということは統治の中身を見ればすぐに分かることです。

戦後、韓国はどうなりましたか?

今、韓国では日本が戦争に負けた8月15日を「光復節」と呼んでいます。
日本の敗戦によって朝鮮に光が戻ってきた、という意味です。
しかし実際は光が戻るどころか、日本が朝鮮半島から撤退することによって朝鮮半島は混乱の道を歩み始めたのです。

戦争が終わった1945年8月15日に朝鮮がすぐに独立できたわけではありません。
日本は朝鮮の独立を認める方針でしたがアメリカは独立を認めず、アメリカの信託統治にするつもりでした。
日本が負けると分かった途端に日ソ不可侵条約を一方的に破ったソ連軍は満州に攻め入り、北緯38度線から北半分を占領してしまいました。
日本の統治時代に独立運動の指導者だった人たちはアメリカや中国に散らばって活動していました。
その中でもっとも大きな勢力を持っていたのは上海にある「大韓民国臨時政府」です。
しかしアメリカは臨時政府を正当な政府として承認しませんでした。

独立運動のリーダーたちは韓国に帰国してからも内部抗争を繰り返し、一致団結できませんでした。
結局、アメリカから帰国した李承晩が朝鮮半島の南半分だけで政権を樹立することでアメリカ政府の承認を得て、1948年8月15日に大韓民国を樹立、初代大統領に就任しました。
しかしその後も韓国では左右のイデオロギーが激しく対立し、ついに1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を破って侵攻し、朝鮮戦争が勃発したのです。
朝鮮戦争は1953年に休戦協定が結ばれましたが、朝鮮半島は未だに南北に分断されたままです。

なぜ韓国は学校で反日教育をしているのですか?

韓国の初代大統領になった李承晩は日本統治時代はずっとアメリカにいて、朝鮮総督府がどのような統治をしていたかを知らない人です。
祖国を捨てて亡命していたのですから、本来ならば大統領になる資格のない人です。
そのような正当性のない人が大統領になってしまったのが不幸の始まりでした。
彼は日本の統治に協力的だった人々を「親日派」と呼んで徹底的に弾圧、粛清しました。
政界でも財界でも日本の教育で育ち、指導的立場になっていた優秀な人々は職を追われました。
今でも韓国では「親日派」といえば「民族の裏切り者」の代名詞です。
日本の統治を心の中では評価している人たちも、「親日派」と呼ばれることが怖くて口に出せません。

韓国は日本と戦い、実力で独立を勝ち取ったわけではありません。
たまたま日本が戦争に負けたので、アメリカから「承認されて」独立できただけです。旧宗主国と戦い、実力で独立を勝ち取った東南アジアの国々とはそこが違うのです。
また日本統治時代に朝鮮人はすっかり日本人化してしまいました。
国民に「自分は韓国人なのだ」という韓国人としてのアイデンティティを植えつけるためには日本の罪をでっち上げ、日本を貶めることが必要なのです。

参考文献:名越二荒之助『日韓2000年の真実―写真400枚が語る両国民へのメッセージー』(ジュピター出版)
     北山京『歴女が学んだホントの日韓関係』(青林堂)
     若狭和朋『日本人が知ってはならない歴史』(朱鳥社)
     崔基鎬『日韓併合―韓民族を救った「日帝36年」の真実』(祥伝社)
     呉善花『「日帝」だけでは歴史は語れない』(三交社)
     呉善花『生活者の日本統治時代―なぜ「よき関係」のあったことを語らないのか』(三交社)
     呉善花『韓国併合への道』(文春新書)
     坪井幸生『ある朝鮮総督府警察官僚の回想』(草思社)
     李方子『流れのままに』(啓佑社)



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